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劇団アンゲルス 『チェーホフ・マテリアル2004 =三人姉妹=』

木村透子                        

11月17日(金)19:00開演

11月18日(土)14:00、19:00開演
11月19日(日)14:00開演
会場 金沢市民芸術村ドラマ工房


 2004年12月17日〜19日に、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された劇団アンゲルスの『チェーホフ・マテリアル 2004 ー三人姉妹ー』では、従来の『三人姉妹』の演劇と異なるところが三点あった。
1、舞台上に白い大きな立方体の箱が立ち上がり、三人の姉妹はその上で芝居する。(他の登場人物たちは箱の下で演技するのであるが。)見ていると、彼女たちが縁から落ちてしまうのではないかと、ちょっとはらはらすることもあった。彼女たちの、人生の縁にしがみついて生きる姿、不安と焦燥にかられる姿を表現しようとしたのだろうか。また、その箱の側面には、ニュース映像などが映された。
2、パンクジャズ・バンドによる音楽のライブ演奏が舞台上(演技の下手)で行われた。かなりの音量と分量であり、バックグラウンドというものではなかった。
3、地の者:道化師あるいはマントを着た女たちが、狂言まわしあるいは予言者のように劇中に登場し、例えば「お前たちはこの叫びを聞く耳をお持ちかい?」とミューラーの『メディア』の台詞を言ったりする。
 この三つの点により、今回の『三人姉妹』は、公演ちらしに書かれてあった「映像と音と造形と役者たちのコラボレーション」となり、感覚的で、視覚的で、退屈させない劇になったと同時に、舞台の中にもう一つの舞台を見るような、客観的で覚めた視点を与えられることになった。私は一方、覚めた視点こそチェーホフの原作『三人姉妹』の本質のように思っていたが、この岡井『三人姉妹』は全く別のところで客観性を見ることになった。
 チェーホフの作品は、いわゆる大きな物語というのではない。トルストイやドストエフスキー作品ようなドラマティックな、壮大な物語ではない。一つの事件をたどり、一つの結末をつけて終わる作品ではない。普通の人びとの現実生活のなかでの葛藤がテーマであり、日常のばらばらの出来事や状況を広げ、広げっぱなしにして、それを感情的にではなく、冷徹な視点で眺めるといったところがある。こうした意味では、百年の時を超えて、現代的な作風であると思う。原作『三人姉妹』で感じたのは、登場人物たちがとても孤独であること。お互いに話していることがかみあっていなくて、空しい独白でしかないこと。姉妹たちの「モスクワへ!」と劇中で何度も繰り替えされる希望の言葉も次第に力なく、やがて消えていくあの空しさ。相手に届かない言葉、成り立たない対話。このさびしさは現代そのものではないか。さらには、肩書きや権威に縛られ、空々しい理論や空しい言葉ばかり並べて行動がともなわない男たち。まさに現代の男たちではないか。そうした男たちを見放し、必死に自分たちの生き甲斐を求める女性たち。これも現代の女性たちそのものである。そして、劇中の言葉「今や時代は移って、われわれ皆の上に、どえらいうねりが迫りつつある」のように、時代の変わり目にあって、かすかな期待と大いなる怖れに恐々としながら生きている私たち。そういう意味でチェーホフが差し出した問題は現代のそれである。そして、こうした状況を覚めた目で見る時、この劇は、三人姉妹の夢が現実のなかでだんだんと砕かれていくという悲劇でありながら、どこか私たち人間の営みの哀れさ、滑稽さを感じさせる(喜劇とまでは言えないにしても)劇であるように思われてきた。
 岡井氏の台本、演出は冒頭に挙げた三点により、そうしたことを意識しているのかとも思うのだが、そう解釈するためには、三人の姉妹や他の人物たちを演ずる若い俳優たちがとても元気よく、台詞もはぎれよく明瞭なため、そうした人生の裏面というか、無意味さや弱み、同時にかすかな希望を見せることにおいて、また人と人との無言の緊張関係を表現するには、少し無理があったかと思われた。また、原作に在る老軍医チェプトイキンが登場せず、ヴェルシーニン陸軍中佐の哲学論もかなり省略されていたことによって、チェーホフの原作に漂っていたシニシスムや冷徹さがかなり薄められていた。
 しかし、そういうことよりも強烈に明快に、岡井『三人姉妹』は、現代の私たちを「不安にしているもの、恐ろしいもの、面倒なもの、危険なもの、汚いもの、そして懐かしいもの」が詰まっている大きな箱を見せた。登場人物の台詞や所作よりも明らかに、誰にも見える形で。とても前衛的でパワフルな芝居だと思った。
           (「」内は、公演パンフレットより引用)

 

 

 

 

 

シェイクスピアも苦笑い?!
  劇団東京べれゑ『シェイクスピアが転んだ!』

木村透子                        

11月20日(土)17:00開場17:30開演
11月21日(日)12:30開場13:00開演
会場 金沢美術工芸大学・美大ホール

 二○○四年十一月二○日と二一日に金沢美術工芸大学美大ホールで公演をした「劇団東京べれゑ」は、関東在住の、金沢美術工芸大学「劇団べれゑ」OBが中心メンバーだということである。今回が第四回だというが、脚本の服部大三郎、演出の平田瑞希も含め、よくこれだけの有能でパワフルな演出者、演技者が揃ったものだとまず感心した。”笑いアリ、音楽アリ、踊りアリーーー原作なんか知らなくても楽しめます!”というのがこの公演のキャッチコピーだったが、確かに私も含め観客は大いに楽しんだ。演ずる俳優たちも大変に楽しかったのだろうと思われた。 
 シェイクスピアの五大名作の一挙上演だった。『呂実男と百合江の…』『変だす、この商人』『幕です…?』『おむれっと』『ゲームじゃないよ』と、それぞれ原作をほぼ忠実に模したタイトルが物語るように、原作のパロディがオムニバスで演じられた。十六世紀の世界の名作をうまく現代の日本の状況に設定し、現在の話題を取り入れ、全く不自然さはない。元金沢美大生だけあって金沢弁もなめらか。時に白けてしまいそうな駄洒落もあるけれど、演技もプロには全く引けを取らない。そして、衣装や舞台美術はさすが美大生!と納得してしまうほど個性的で素晴らしかった。
 こうして称賛ばかりなのは、この劇団が素人劇団と自称しているからであり、また脚本を担当した服部氏自身が「…従来の演劇パターンにはまらない出し物によって二時間程は楽しんでいただけるかなと……当然断片的で、所詮ハイライトシーンや、芝居にして面白い「点」のような部分を、私独断の設定にアレンジした、およそ従来の芝居の脚本のセオリーとはかけ離れたものでしたが、私としては一向に構わない…」と述べているように明快なスタンスを示されているため、それに対しては納得するしかないからである。難しい文芸作品だけがよいのではない。むしろ独創こそ評価したい。
 そうしたことを理解した上で、喜劇について一般論として私が思うことを少し述べてみたい。劇も小説も詩も、大前提として人間を描くのだと、私は思う。喜劇こそ難しいとはよく聞くことであるが、それはどういうことか。一つの解釈として、喜劇の方が悲劇よりももっと人間というものを知り尽くさなくてはならないということだろう。描かれる人間の真剣で必死な生き様と状況とのずれ、すれ違い、そうしたことが可笑しかったり、哀れだったり、愛おしかったりして笑うしかないということだろう。シェイクスピアの、人間の原罪や愚かさをテーマにした物語をパロディ化するにも、人間の哀しさや醜さを十分理解した上でそれを笑い飛ばす諧謔性と皮肉があれば、単なるどたばた喜劇以上のものが生まれるであろう。例えば今回の公演でも、軽薄な悪さ(あるいは勘違い)をしたばかりに引き起こされるどたばた劇(シチュエーション・コメディ)になっているが、もっとそうした人間の悪の部分、そうした罪を犯さなければならなかった理由を掘り下げてーーーたとえステージ上には表されなくてもーーーそうした後にそれを皮肉るユーモアがあれば、よりドラマに深みが出てくるだろうと思うのだ。さらに、俳優たちが、面白い芝居をやっているのだから楽しいに違いないが、笑いながら演じるのではなく、喜劇こそ真面目に真剣な顔をして演じて(いると客を騙して)ほしいのである。
 今回、私はプログラムを含め三種類の公演ちらしを入手したが、それぞれ書かれていた開演時間が違うのである。これでは観に来ようと思っている人は混乱する。次回は、こうしたことのないようにお願いします

 

 

 

 

 

身体は精神の劇場
 フィジカルシアターDEREVO 『島々(Islands)』

                              木村透子

2004年10月19日(火)
金沢市民芸術村パフォーミングスクエア

 「無言劇? コンテンポラリー・ダンス? 舞踏?」と、その公演パンフレットに書かれている。フィジカルシアターという言葉は、最近では演劇の新しい用語として使われているらしい。舞台表現として、より身体性をアピールすると考えればいいのだろうか。「国際芸術カーニバル(Polyーnational Arts Car
nival)2004」のプログラムとして、同時に「金沢演劇祭2004」のプログラムとして、十月十九日に金沢市民芸術村パフォーミング・スクエアで公演したロシア・ドイツの身体表現グループ、DEREVOの『島々(Islands)』は、しかし、研ぎすまされた身体表現以上に精神性を強く感じさせるパフォーマンスだった。
 DEREVOは初来日であるし、私も知識のないグループであった。ロシア語で「樹」を意味するこのグループの経歴は、1988年に、アントン・アダシンスキーがレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)にスタジオを設立。毎日七時間のトレーニング法を考案実践し、一年後に残った四人とともにDEREVOを結成。現在はドレスデンのヘレラウ祝典劇場を活動拠点とし、その作品はヨーロッパ各地のフェスティバルで絶賛を浴びている、とある。この、クリエイター/ディレクターのアダシンスキーは前衛演劇の研究に関わってきた人であるが、かつて音楽学校でギターとトランペットを学び、80年代にはロックグループ「Avia」のメンバーとしても活躍していたという。
 以前に、二十世紀はじめのロシア・ポスター展を見たことがあった。その用途、画面構成、色調などに資本主義国との違いがはっきりと見えたのだったが、今回のパフォーマンスでも、まずステージの色彩とパフォーマーのコスチュームに目を奪われた。あのポスターを思い出させたほどに、東と西という構造が崩れた今でもやはり違うのであろうか。ただ広いフロアは灰白色がかり、スモークも流れる。水兵やテニスプレーヤーのコスチュームの白。そういったものが、西欧的な形や色に慣れた目には、むしろ新しい。そして美しい身体を持った五人の男女パフォーマーはそろってスキンヘッド。
 汽笛の音が聞こえ、波の音がし、ブラスバンドの軽快な音楽が流れる。ダンスともパントマイムともいえる、かろやかなムーブメントでシーンがつながれていく。身体的に目を見張るような、アクロバティックな表現はない。むしろ力を抜き、身体をドラマティックに遊ばせていく。そこに、いわゆる感性とは違った深い精神性を見た。観る者の五感に届くだけではない、もっと、観念も感情も同時にさらわれると言おうか。例えば、二人のパフォーマーが白い半円球を手に持ち、その半球を挙げて静かに動くシーンでは、あたかも広漠とした宇宙空間に立つ彼らが無重力状態で浮遊し始めたかと見え、さらには観ている私も不思議な浮遊感にとらわれた。ヒーリング系の音とも相まって何とも心地よく、いつまでも続いてほしいと思わせるほどだった。また、一人の男性パフォーマーが踊る。すべての余剰を捨てたその姿に、何ものも寄せつけない魂の孤独を見た気がした。
 シーンは一転して、風の音、波の音がとどろく。駆逐艦の船長が苦しげな動きを見せる。彼の苦しみは何ゆえなのか。すると、またまた水兵たちが軽快なリズムで現われ、魚たち(絵)が泳ぎ、架空の船上ではモップ掛けが行われ、洗濯物が船の上ではためく。しかし、そうしたシーンの後に、ステージがほとんど暗転となり、パフォーマーが泥のような色の、グロテスクに膨らんだ上着を着てブーツをはき、うごめくようなシーンが何度か挿入された。まるで地中を這う虫のような。もしかしたら、光の届かない深い深い精神世界か。
 DEREVOのマニフェストに、「メンバーは”人間は頭を低く垂れている”と信じる。彼らはまた信じる、幼子が這うことの、動きがはじまることの、音が響きはじめることの、不動であることの、夢の、夢遊歩行者が体を平衡に保つことの重大さを」とある。これは、彼らが頭を上げて身体を動かすに先立つ、限りなく絶対に近い静止の一瞬にすべての意識を集中させているということではないだろうか。DEREVOの『Islands』は、現在の多くのダンス・カンパニーが志向する独自の感性と高度なテクニックばかりでなく、深い精神性を持つことにより、十分に観客を楽しませながら芸術として格調高く存在することを明らかにした。彼らはこの宇宙の全存在のために演じているのだと思わせた。身体は精神や頭脳を含めて在るのであり、しかし、概念を身体で表現するのではなく、ひたすら身体を信頼し、身体が(身体で、ではない)すべてを語ることができるのだ。それこそ、厳しいトレーニングの結果として行き着いた精神の高みなのだろう。アダシンスキーは舞踏家大野一雄に心酔しているというから、当然舞踏の精神、動きに強く影響を受けていると思われる。マニフェストは続く。「確信はないが、なにものかが我々とともに生きることを可能にしている 我々は信じる、古の書物と動物たちとの友情が重要であると 地平線はいつも足もとにあり、空は地面からただちにはじまるということを」と。
 最後にぜひ書いておきたいのは、ロマン・ ドゥビニコフの音楽の素晴らしさと、ファルク・ディトリヒの照明の美しさである。少なくとも私には、こんなの聴いたことがない、見たことがないと思わせるものだった。\

  

 デレボからメールが来ました! HPをのぞいてみてください。

      We put on our web-site photos from our visit to Japan in October
    http://www.derevo.org/common/int/words/now/
    Have a look and enjoi!
                Elena Iarovaia
                DEREVO
                www.derevo.org

 再び11月末日にメールがありました。

    http://www.projekttheater.de

 

七つ寺プロデュース(名古屋)
『ハムレットマシ−ン』

2004年9月18(土)、19日(日)
金沢市民芸術村ドラマ工房

 寂光根隅的父氏が演出する七つ寺プロデュ−スの『ハムレットマシーン』(以下HM)は、2003年1月の七つ寺共同スタジオ(名古屋)と2003年12月の麻布die pratze(東京)を経て、今回が3度目だというが、私が観るのは、この金沢公演がはじめてである。残念なことに比較もできないし、どのように変化してきているのか、その過程もたどれない。”再演といっても出演者も演出プランも異なり、ほぼ新作というくらいに違う”と、公演パンフレットに書かれていた(刈馬カオス氏)が、それでもひとりの演出家、彼を『HM』に向かわせたもの、彼のテーマは何なのだろう?

 最初に登場した人たちは、第2次世界大戦に破れた日本兵だろう、と、その服装から判断した。舞台は戦後の日本なのか。しかし、戦闘機の爆音や爆弾の炸裂音が響くなか、歩き、疲れ果ててすわり込み、倒れる俳優たちに、私の感情はそう素直にはついていけない。何故だろう? 私が経験していない時代のことだとはいえ、大概の劇でも映画でも、キリストの時代へでも明治の時代へでも、一応はすんなりと私を連れて行ってくれる。しかし、今回は戸惑ってしまった。この舞台に自分の知らない時代が出てくるとは思わなかったという戸惑いは、私個人の問題なのだろう。これは第2次大戦ではなく、現在世界じゅうで起こっている戦闘と考えることもできるかもしれない。それでも、劇というのは自分の目の前に在るものしか存在しないのだから、この出現にはちょっと違和感を感じた。

  寂光根隅的父氏は「HMを鏡として私にとっての日本を辿ろうと考えた」という。初演では「終戦からの歴史と自分たちの立ち位置を測定しようと試みた」とあるが、東京での再演では舞台は現代に変わったようだ。「その間にイラク戦争が起こり、我々自身が世界史の大きな転換点の渦中にあるという認識が生まれたためだった」という。そして、今回、再び終戦の時代が登場したのだ。現在の日本を語るために、寂光根隅的父氏もそうだろうし、観客のほとんどが経験していないであろうあの時代を、日本の、あるいは自分の歴史の起点として必ずしも説得力を持ったとは思えないが、寂光根隅的父氏が『HM』を通して客観的に日本を見ようとする時、世界における日本の立場を決定した敗戦という事実を置くことは必要だったのだろう。

  そして、坂口安吾の、三島由紀夫の、寺山修司の言葉が語られる。彼らの言葉とともに時代が鮮やかに甦ってきて、懐かしい。とても感慨深かった。確かに坂口も三島も寺山も、戦後日本の革命家であったのだ。しかし、学ランを着て人を殺す青年が「酒鬼薔薇聖斗」だとは、知らされるまでわからなかった。どんな事件だったかさえ、迂闊にも思い出せなかった。それほどあの事件は遥かに過去のことになってしまったし、珍しくなくなってしまった。それほど今の日本では暴力と殺人は日常になってしまったのだ。

  俳優たちは空間を行き交いながら、『HM』のテクストの台詞を語った。台詞を語るという行為が世界中に噴出する暴力を表現しているのか。それでも、三島の言葉の前で、「わたしはハムレットだった」という台詞はすっかり力を失ってしまっている。突然のダンスも、重量も体積もなくて、影絵のように空しい。なぜ、戦後の日本から酒鬼薔薇聖斗のような殺人者が生まれざるをえなくなったのか。坂口、三島、寺山から酒鬼薔薇聖斗へ、歴史を辿るだけでは、この劇からは何も明らかにされない。寺山以後、日本は黙してしまった。誰も何も言わなくなった。

  果たして最後には、俳優たちが車椅子に乗って現われると同時に、ドラマ工房の二階の闇から寺山修司の言葉が降ってきた。というより、空間に響きわたった。ぞくぞくするほど感動した。言葉、しっかりと実を持った言葉。言葉の意味に導かれた時代があった。あの言葉を信じられた時代があった。しかし、今は……

  寺山の言葉が車椅子に乗った瀕死の人間たちを甦らせるとは、おそらく思う人はいない。過去を開いてみせたのに、自己崩壊しながら、暴力に満ち、言葉を失った現実と、私たちはどのように向きあえばいいのか、これからどこへ行けばいいのか。//

木村透子

 

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